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早いもので今日で30日目!一か月も歩きで旅している事が噓のようです。まずは、自分の足に感謝。そして大師と四国の方々にも感謝です!
さて、今日は45番・岩屋寺を宿の「八丁坂」から空身で往復します。行きは途中から南に折れて山道を経由し、帰りは県道12号をたどり戻り、往復で15km少々となります。荷物をピックアップした後に、久万高原を経由して進路を北にとり、次の宿「長珍屋」まで20kmで進みます。合計35kmありますので、ちょっとハードな一日になりそうです!
岩屋寺に向かいましょう!
朝食をいただきます!
宿の入口にはロッカーがあり、ここで荷物を預かってもらい空身でお寺に向かいます。朝から雨が降っていますが、午後にはやむ予報が出ています。6:38出発!
今日は、途中から南側の山道に入りますが、帰りはこの県道12号を帰っ来る予定です。
十数分歩くと山道への分岐が現れます。コンテナの様な休憩所があり、その手前に道標が出ています。
ここから宿の名前にもなっている「八丁坂」を目指します。道標では1.9kmの表示があります。
さあ、ダイブしました(⇒バタンキュー21(BQ21)氏との間の遍路用語。山道のへんろみちに入る時に「ダイブ」、出る時に「フロート」という。結果、長続きせず終わる)。
沢のところも遊歩道のようです。(橋はないですが…)
階段で登っていきます。
ちょっと急登ですね。(ここは、そんなに長くなかったです)。
登りからなだらかな道に変わりました。
何か、山頂感のある所を通過。(でも右上の方が高い…)
八丁坂まで半分以上来ましたね。
山の右側、南面のトラバースです。
おや、民家ですか!
あやめが咲いています。
左が民家で、右が納屋でしょうか。7:17。
その近くに、新しいログハウスが建っていました。
少し進むと、民家の方の道と合流します。
すぐに「人の為に何かをしよう」の掲示がありました。
何か立派な建物があります…。水道施設でした。
この先、右の方向に入ります。7;28。
こちらからも国民宿舎に行けるようです。
ベンチの脇に案内板があり「昔の人は急な延長2,800mの坂道を修行のへんろ道として選びました」と記載されています。頂上までではなく岩屋寺までが「八丁坂」のようです。
どんどん登って行きましょう。
表示には「岩屋寺へんろ道」とあります。
「四 四国のみち⇔」の表示は分かっているからもったいない気がしますが…(道標とかで使うなら有効かな)。
「一歩ずつ 進んで行けば いつかはゴール」の表示あり。
八丁坂の茶屋跡=頂上休憩場までやってきました。「ここは、野尻から中野村を経て槙ノ谷から上がるうち戻りなしのコースとの出会いの場所です」の案内がありました。⇒内子から農祖峠を通りこの地点に来て、先に45番をお参りした後に、国道12号を通り44番に向かうことで同じコースを通らなくて良いという事です。今は一般的でないようで、この道標には槙ノ谷の矢印がないようでした。7:48。
茶屋はここに建ってたんでしょうか。
晴れていれば眺望があるのでしょうか。
分岐の案内看板には八丁坂頂上いう表示がありましたが、この先には、それより高い所もあるので写真のように登ったり‥、
急激に下ったりします…。
で、「四 四国のみち」はもういいよ…、え、「四まむし注意」!わっ、別途発注してる!("四"はいらないでしょ!)
それからしばらく歩き、8:25に石像が見えてきました。
お不動さんがいらっしゃいます。
こちらが、逼割禅定(せりわりぜんじょう)といって、「開山の法華仙人(女性)が、弘法大師に通力を見せた跡と伝えられ、岩の裂け目を鎖と梯子でよじ登り頂上の白山大権現に詣でる山岳修験者の古くからの行場」との案内がありました。
近くの岩場にはそれらしい石が積まれていました。
下って行くと、赤い旗が立っています。所によってはルートが別に仕立ててあるところもあります。
こちらは狐を従えて祀られていました。
この一連の像は、不動明王にお仕えする三十六童子でした。(後に分かりましたが、逼割禅定をお願いすると300円を納めて、三十六童子の納め札をいただけるとのことです)
ようやく山門が見えてきました。(後で分かるのですが、これは逼割禅定に続く仁王門でした)
山上からアクセスしたので、昨日BQ21氏が言っていた到着するまでの道のりが大変だったというのが、分かりませんがひとまずお参りしましょう。
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45番・岩屋寺(いわやじ)
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岩屋寺は岩壁を見て山全体がご本尊という事がよくわかる、「山岳霊場」がよく似合うお寺でした。こちらも秋のよく晴れた日などにまた訪れてみたいものです。それにしても、山門から本堂までの登りは結構大変そうですね。こちらは八丁坂から下って来たので事なきを得ました。
宿を経由して三坂峠から松山市に向かいましょう!
さて、まずは「いやしの宿 八丁坂」に向かいましょう。山門まで下りてきました。
下りて県道12号方面に向かいましょう。
下りてきた方を振り返ると、山村の集落といった感じです。
左に曲がり久万方面に向かいます。話によると、ここから登りなんでしたよね…。
歩いていると、どこかで見たような母子?がおりました。
古岩屋トンネルを越えましょう。
10分ほど歩いたら古岩屋にふさわしい岩場が見えました。
その後、あまり特徴のない道路を1時間半ほどかけて、宿に到着しました。ご主人の言う通り、昨日行かないで良かったです。⇒往復5時間もかかってますから。荷物をいただいて11:30再スタートです。
途中の下畑野川の様子です。このあと、峠御堂トンネルまでは登りです。
ところが、坂を登っていると、また雨が降り出しました。
トンネル手前の様子です。
トンネルを抜けて下っていると、八幡浜から来られた軽ワゴンの年配のご夫婦に声を掛けられました。マーマレードケーキとお茶のペットボトルのお接待をいただきました。明日の食料にさせていただきます!
久万の街中まで下り、12:30を過ぎていたので商店街に良いお店はないかを検索しましたが、特に見つからないため、ローソンで昼食を買い駐車場で食事をしました。さて、残り15kmほどあるので出発しましょう。13:00出発です。
低い雲に覆われた久万高原町です。
明らかに松山は近づいています。(四国の中の89は起点から89kmの事のようです)
今日の宿「長珍屋」は、ほぼ46番・浄瑠璃寺の前にあるので、お寺の距離表示13kmと同じという事で、分かりやすいです。
午後になっても降りやまない雨と、歩道部分が上下する作りの側溝蓋にだんだんストレスが溜まってきました。また、松山までは下りのはずなのに一旦に登っている感じがします。「いいかげんにしろー、曇りのはずだろ、下りのはずだろー」と誰もいない所に叫び出す始末です。うーん、いけませんね。「べがわ哲朗」の再来です【8日目参照】。ある意味、八丁坂より気分的にツライ…。
お、絵のついたキロポストがありました。
ここで、モヤモヤを晴らしてくれる軍団の登場です。
「次は岩屋寺」という事は、あなたは逆打ちですか?こちらは浄瑠璃寺に向かいます。
歩いていると、次のような案内板を発見!通行止めの看板が歩道側に向けて90度曲がっているので、今は通行止めではないという事を言いたいようですが、歩道からは見えちゃっています。歩く人はほとんどいないとはいえ、表示の仕方に難ありのような気がします。⇒後ろ向きに折れるようにして字が上下反転で読めなくなるとか…、カバーをかけるとか…。
ようやく、三坂峠近くの国道分岐にやって来ました。この先国道33号は自動車専用道路の三坂道路になってしまうので、歩行者、自転車は直進して国道440号(旧33号)を通ることになります。14:10。
国道440号に入ったのですが、キロポストの対応が雑で不憫です。⇒旧33号の「33」を雑に隠しています。
おお、スキー場の経営が厳しい中「久万スキーランド」は頑張っているようです!
ゆるい坂を登って行きます。
さて、分岐から2.5km歩いてへんろみちに入るようです。
歩いて行くと、間違いなく人の家の敷地だろっ!てなところがルートになっています。
道が林の中に吸い込まれていきます。右の建物は何かと近寄ると…。
「別荘 馬酔木」の「受付」「売店」のようで、昔は管理事務所だったのかもしれません。「ワンダーJAPAN」(不思議な建物や廃墟を掲載した雑誌)好きには惹かれるものがあります。
それよりこの建物から林の中に進んだあたりが、明らかに怪しげな雰囲気で、見る人が見たら何か違うものが見えるのではないかという所でした。写真は調光して明るく写っていますが、実際は陰鬱な感じなのです…。
少し進んだ所の案内看板には次の説明がありました。「伊予と土佐を結ぶ土佐街道を結ぶ急峻な峠です。江戸初期に久万の商人山之内仰西によって拓かれました。明治二十九年に三坂新道(現国道440号)が出来るまで、この道が松山と久万を結ぶ主要道でした。」
道は土だけでなく…、
石畳もあります。
木立ちの無い所からは松山方面が望めます。
そういえば、先行しているBQ21氏からアドバイスが来ていました。スリップ注意のようです。
途中、案内板にあった山之内仰西さんの造った「鍋割坂」の柱がありました。
この石畳は昔からのものでしょうか…。
先ほどもあったのですが、新たなパターン「四落石注意←」が現れました!(いろいろなパターンで注文してるな…。)
いやいや、ゴロゴロ落石してます!
さらに下って行くと、東屋が見えてきました。「一ノ王子社跡」の案内看板がありました。「この休憩所には、かつて一ノ王子があったといわれています。(王子とは熊野信仰に由来する三十三または九十九カ所の小さな社です。一から順番に参詣していきます)中世から近世にかけて石鎚信仰に熊野信仰が結びつき、ここから石鎚山頂までの道に王子が続いていたといわれています。(後略)」とのことです。
東屋から10数分歩くと歩きやすい、樹林帯になりました。やっと日差しもでてきました。
さらに5分ほどすると完全に舗装路ですね。
あー、ここがBQ21氏から連絡のあった、コンクリートの下り坂ですか。確かにコケが生えているので濡れていたら危ないですね。
謎の建物なども出てきましたが、濡れていなくても滑りそうなところがあり注意です!
それから約10分で坂本屋に到着。16:10。こちらは、明治・大正時代に建てられた遍路宿を使用した接待所で、コロナ禍でなければボランティアの方などがお茶などを出してくださるそうです。残念。
案内板によると浄瑠璃寺まであと6.5kmのようです。
すっかり天気は回復して、暑いくらいになってきました。
大変だ!本当のトワイライトゾーンが!…………⇒なんだ、案山子か…。
道は山里をクネクネと…、
グルっと回って下りて行くので方向感覚がなくなりそうです。
時には、また高台に登り…、
また山に来た気分になりました。
16:35に「網掛け石」という所にやってきました。案内板には次のように書いてありました。『昔、弘法大師が大きな石をを網に入れて、オクウ(担い棒)で担っていたところ、オクウが折れて山へ飛んで行きました。落ちた所をオオクボ(松山市久谷町大久保)というようになりました。また石の一つは下の川に落ち、もう一つはこの石であると言われています。この石は、表面に無数の網目がついていることから、「網掛け石」といわれています』
現在ならば、室伏広治氏どころではない投てきでしょう!
さて、歩いていると素晴らしい景色が広がりました。
一旦、県道207号に合流していましたが、左の川沿いの道に進むようです。
久万高原方面を振り返りましたが、午前中の天気が嘘のようです。
街中に入ってきました。
御坂川に並行して歩きます。
ここで橋を渡ります。
橋の向かいの坂本基幹集落センターの前にマップがありました。え、この近くに久谷郵便局があるってことは、大師が投げた石が落ちたのはこの近くなの…。マップで探してみると真ん中よりちょっと上の「久谷町」の左に「大久保」がありました。旧国道33号沿いなので結構飛ばしましたね。
さあ、この道沿いの様です。
そうでした。こちらが今日の宿「長珍屋」です。17:30にようやく着きました!今日も頑張った!
今日は、県内の高校の大会があるらしく、だいぶ若者たちで賑わっていました。
大浴場があるので、そちらに入りますがバス・トイレ付です。
風呂をダッシュで入り(15分!?)、18:00より夕食です。座卓が20以上並んでいますが、学生でラッシュになっています。こちらのテーブルは長珍屋の呼び方「お参りさん」=「お遍路さん」でまとまっているようで、お遍路さん3名で同席することになりました。
同席した、「マシンガン山口」さんと「こまつムービー」さんです。
山口さんは、徳島・大歩危タクシー勤務で、今回は会社の車を借りて区切りで回っていて、今日は足摺の方から来られたそうです(やはり車は早い!)。仕事柄、お遍路さんをツアーで乗せることもあるそうでいろいろ面白い話もお聞きしました。香川から来ているこまつさんは、ムービーを撮りながら区切り打ちをされていてます。今回は明日の松山までとのことです。
お二人とも四国の方なので、お遍路の話をはじめ、地元の話など、楽しく過ごさせてもらいました。別格20番をどのように回るかという話をしたら、別格20番をまわってから、88番・大窪寺を最後にした方がいいというアドバイスをいただきました。ありがとうございます!
ちなみに、こまつさんの今日のムービーは次のとおりです。(岩屋寺の逼割禅定、三十三童子行場の映像アリ)
さて、明日はいよいよ松山市内に入ります。では、また明日!
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