「ウィキペディアより」
すべての干支の守り本尊が各堂に祀られており、四国で唯一の御陵である白峯陵が隣接する。
年中花が楽しめ、特に春は桜、夏は紫陽花、秋は紅葉が有名で多くの参拝者が訪れる。
また、古来より本尊千手観世音菩薩は身代わり観音として、鎮守白峯大権現(相模坊大権現とも云い日本八天狗の一狗である)は開運招福、商売繁盛、勝負事の神として、崇徳天皇は悪縁断ち、芸能成就、学業成就の神として信仰されている。
寺伝によれば、空海(弘法大師)が弘仁6年(815年)この地に訪れ、白峯山頂(標高357m)に如意宝珠を埋めて、仏に供える水を汲む閼伽井を掘り、衆生救済の請願をした。また、円珍(智証大師)が貞観2年(860年)、山頂に輝く瑞光を見て登頂、そのとき地主神である白髪の老翁よりご神託を受け、瀬戸内海に現れた光明に輝き、芳香薫ずる可思議な光を放つ霊木で千手観世音菩薩を刻み、当寺本尊として安置し、仏堂を創建したと伝えられている。
後に、長寛2年(1164年)旧暦8月26日崇徳上皇が讃岐流刑地で崩御し、遺詔により当寺上の稚児嶽上で荼毘に付され陵墓が造られた。その3年後には西行法師が詣で慰霊のために法楽を行った。その後、建久2年(1191年)後鳥羽天皇により、慰霊のため陵墓近くに、崩御までの6年間を過ごした鼓岡の御所である木の丸殿を移築し法華堂を建て、上皇が仁和寺で軟禁されているとき描かれた自画像を奉安し頓証菩提を弔った。寺運は上昇し寺坊は21を数えるほどになっていたが、永徳2年(1382)火災によって大半を焼亡するが、応永21年(1414年)に後小松天皇は上皇の成仏を願い自筆の「頓證寺」と書かれた勅額を奉納し頓証寺殿となった。 そして、延宝8年(1680年)には高松藩主松平頼重・頼常により頓証寺殿と勅額門が再建された。
江戸の幕末の動乱を憂う孝明天皇は崇徳上皇の霊を慰めるため上皇の神霊を京都に移すよう命じたが実現しないまま慶応2年(1866年)旧暦12月25日崩御した。その遺志を継いだ子の明治天皇は慶応4年(1868年)旧暦8月26日に当寺に勅使[4]を送り御陵の前で祝詞「保元年間に起きた一連の忌々しい事は、本当に哀しみの極みでした。孝明天皇の遺志を継ぎ、京都御所の近くに新しい宮を造りましたのでどうぞ都にお戻りいただき、天皇と朝廷を末永くお守りください。」と読みあげさせ、また、その勅使は当寺の上皇の自画像と愛用の笙(しょう)を持ち帰り、旧暦9月6日に京都に到着した。そして、その翌日、明治天皇が参拝し、さらに翌日の旧暦9月8日に慶応から明治に改元された。
明治維新になると白峯御陵は当寺から宮内省の管轄に移り、明治3年には上知令が出され寺領は境内を残し没収されて、収入が失われ、本坊になっていた当寺である洞林院以外の塔頭の一乗坊・宝積院・円福院は廃寺となり、当寺住職は明治6年転身してしまい無住寺となった。その前年に無檀家・無住寺院は廃寺との通達が出ていたのでこのままでは当寺まで廃寺となるのを憂いた信徒たちは住職選定を願い出て、明治11年新住職橘渓導が赴任となり免れた。
明治11年(1878年)時の宮司の願書により当寺の一部である勅額門と頓証寺殿を白峰神社とし、金刀比羅宮(以下は同宮と表現)の摂社とするという決定が内務郷より出て、所有権が当寺から同宮に移ることとなる。その際に数々の寺宝が同宮に移管された[6]。その後、それを不服とした当寺の住職と信徒は訴訟を起こし、明治17年に当寺の勝訴となるが、白峰神社が頓証寺殿として返還されたのは明治31年のこととなる。また同時に一度同宮に移管された寺宝のごく一部のみが当寺に再移管された。
また、昭和40年(1965年)崇徳上皇800年御忌の機運に乗じ地元青年団有志は、同宮に対し当寺の移管された宝物の返還を求めて裁判を行ったが、はかなく敗訴となった。
本尊‥千手観世音菩薩(おん ばさら たらま きりく)
①七棟門〔重要文化財〕
②本堂〔重要文化財〕
慶長4年(1559年)建立。本尊千手観音、愛染明王、馬頭観音を祀る。
③大師堂〔重要文化財〕
文化8年(1811年)建立。弘法大師、稚児大師、青面金剛を祀る。
④水子地蔵
⑤頓証寺殿〔重要文化財〕
拝殿に文殊菩薩を安置する。
・奥殿‥三つの社があり、中央に崇徳天皇を祀っている。
⑥薬師堂〔重要文化財〕
19世紀前期建立。薬師如来、胎蔵大日如来、金剛界大日如来を祀る。
⑦行者堂〔重要文化財〕
安永8年(1779年)建立。役行者、地蔵菩薩、十王、閻魔尊、虚空蔵菩薩を祀る。
⑧廻向堂
⑨阿弥陀堂
万治4年(1779年)建立。阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩を祀る。
⑩護摩堂・納経所
⑪御成門〔重要文化財〕
享保9年(1724年)建立。
⑫大師像
⑬韋駄天像
その他
・稲荷‥大師像の奥に鎮座
・本堂までの石段
・瑜祀塔
・頓証寺灯篭‥鎌倉時代に作成
・西行法師