寺院案内

1番・霊山寺(りょうぜんじ)

2021年12月15日

霊山寺とは

住所‥徳島県鳴門市大麻町坂東字塚鼻 ☎088-689-1111

1番・霊山寺〔高野山真言宗〕⇒(1.5km)⇒2番・極楽寺

「ウィキペディアより」

寺伝によれば奈良時代、天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創された。

弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ、21日間(三七日)留まって修行したという。その際、天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し天竺の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付け、持仏の釈迦如来を納め霊場開創祈願をしたという。その白鳳時代の身丈三寸の釈迦誕生仏が残っている[2]。また、本堂の奥殿に鎮座する秘仏の釈迦如来は空海作の伝承を有し、左手に玉を持った坐像であり、2014年(平成26年)に4か月間開帳された[1]。

室町時代には三好氏の庇護を受けており、七堂伽藍の並ぶ大寺院として阿波三大坊の一つとして栄えたが、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火に焼かれた。その後徳島藩主蜂須賀光隆によってようやく再興されたが1891年(明治24年)の出火で、本堂と多宝塔以外を再び焼失したが、その後の努力で往時の姿を取り戻し第1番札所としてふさわしい景観になっている。

〔札所番号について〕

寺伝その他の言い伝えでは空海が弘仁6年(815年)に四国霊場を開き、札所と札所番号を定めたことになっているが、これは史実ではない。四国は奈良時代から山岳信仰(後の修験道)の修行地で、空海も唐に渡る前には私度僧として修行のために故郷でもある四国で修行をしたが、唐から戻って後、特定の八十八箇寺を札所として定めたことはなく、後の人々が空海ゆかりの寺々を霊場に定めたものと推定される。実在の人物としての空海は、弘仁年間には都で密教の普及に努めていた。

江戸時代に入り庶民による霊場巡礼が盛んになると、四国を修行した僧などが案内書を出版するようになる。そのうちの一人である真念が「四国遍路道指南(しこくへんろみちしるべ)」を貞享4年(1687年)に出版した。現存する書物の中で、各寺に札所番号を記したのはこの本が最も古いとされている。当時大坂から四国へ渡るには淡路島を経由し鳴門から四国入りするルートがあり、鳴門の撫養(むや)の港に最も近い霊山寺を第1番札所としたと推測される。なお、その本の出版より34年前に巡拝した澄禅は「四国遍路日記」に、すでに当時の阿波国の中心は吉野川の北岸から南岸に移っていて、和歌山から徳島城の近くに上陸すると井戸寺がいちばん近い札所寺になっていたにもかかわらず、霊山寺から始めるのが通例であると書かれていることから、真念より以前すでに番号が付いていた可能性も否定できない。だが、真念の出版の2年後に出された真念と親交のあった寂本の「四國徧禮霊場記」には番号は記されて無くしかも善通寺から始まっている。また真念より約10年後に出された「奉納四国中遍路之日記」は霊山寺から始まりほぼ同じ順番であるが、この日記で現在と順番が違っている部分は、59国分寺 → 62一の宮 → 61香園寺 → 60横峰寺 → 64石鎚山 → 63吉祥寺 → 65三角寺と記されているが、番号は記されてない。

本尊‥釈迦如来(のうまくさんまんだ ぼだなん ばく)

詠歌‥霊山の釈迦のみ前にめぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり

①仁王門

②本堂

③大師堂

④縁結び観音・鐘楼

⑤多宝塔

⑥供養仏

⑦十三仏

⑧不動明王堂

⑨納経所

本堂前の納経所には、へんろ姿の標準型を推奨するモデルマネキンさんがおります。

⑩納経所・売店

納経帳をこちらで購入する場合はすでに記帳されています。

その他

・ストリートビューによる境内の様子(360度)

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