志度寺とは
「ウィキペディアより」
藤原不比等に関わる伝説は謡曲『海人』で知られる「海女の玉取り伝説」が伝えられており、境内には「海女の墓」が五輪塔群として現存する。また、浄瑠璃の『花上野誉の石碑』(志渡寺の段/しどうじのだん)などの舞台にもなっている。 また、江戸時代、当地の出身の平賀源内を長崎に遊学させるため、当時の住職が尽力したという。本堂の背後で境内の北は志度湾で瀬戸内海が広がり、ひとつ前の札所である八栗寺のある五剣山と屋島が臨める。
本寺の縁起によると、志度浦にたどり着いた檜の霊木を凡薗子尼(おおしそのこに、智法尼とも)が草庵へ持ち帰り安置し、その霊木から本尊・十一面観音を造立し、小さな堂を建て祀ったという。626年(推古天皇33年)のことで創建とされている。
681年(天武天皇10年)藤原不比等が堂宇を増築し「死度道場」と名づけたという。また、693年(持統天皇7年)には不比等の子・藤原房前が行基とともに堂宇を建立し、寺名を「志度寺」に改めたと伝えられている。この海辺は極楽浄土へ続いているとの信仰を伝えると『梁塵秘抄』に書かれているという。
その後、巡錫に来た、弘法大師が伽藍の修理にあたったのは弘仁年間である。
室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行うことで繁栄し、室町後期になると敷地内および近隣に多くの僧坊や支院末寺を塔頭として抱えた。のちの戦乱により寺院は荒廃するも、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて藤原氏末裔の生駒親正による支援などを得る事となり、慶長の頃には改めて「華厳坊」「常楽坊」「西林坊」「常林坊」「林蔵坊」「空圓坊」などの僧坊を復興させるに至る。1671年(寛文10年)、高松藩主松平頼重の寄進(本堂・仁王門)など、高松藩主松平氏により再興。これに伴い復興させた僧坊も様々な要因により改めて再編され複数の塔頭寺院(後述)として独立するに至る。
1962年(昭和37年)に重森三玲による枯山水「無染庭」が造られている。
志度寺の僧坊を起源に持ち、後に塔頭として独立した寺院が3つある(「圓通寺」「自性院」「普門院」)。志度寺西側の隣接敷地(志度寺の旧敷地)内にあることから、広義における志度寺として、これらを含む場合がある。
本尊‥十一面観世音菩薩(おん まか きゃろにきゃ そわか)
①仁王門〔重要文化財〕
本堂と同年代1670年代ごろの建立。
②本堂〔重要文化財〕
1670年(寛文10年)建立。
③大師堂
④焔魔堂〔県重要文化財〕
⑤三社
⑥薬師堂
⑦納骨堂
⑧曲水式庭園
⑨奪衣婆堂〔県重要文化財〕
⑩五重塔
昭和50年(1975年)5月に落成。高さ33m。