寺院案内

別格18番・海岸寺(かいがんじ)

2021年11月21日

海岸寺とは

「ウィキペディアより」

寺院本尊は聖観世音菩薩。大師堂は奥之院と呼ばれ弘法大師誕生仏が本尊で、それぞれに納経所があり、それぞれの本尊の納経をしてもらえる。

寺伝によれば、ここは空海(弘法大師)の母親である玉依御前の出身地とされる。更に空海は奈良時代後期の宝亀5年(774年)に当寺奥之院で生まれたとされており、弘法大師出化初因縁(しゅっけしょいんねん)の霊跡と言われる。

平安時代初期の大同2年(807年)空海が本堂を建立して正観音ないし弥勒菩薩を安置したのが当寺院の開創と伝えられている。弘仁6年(816年)には空海が自身の像を刻み、大師堂を建てたことにより奥之院が開かれたとされる。

戦国時代には土佐の戦国大名・長宗我部元親の進攻に遭い天正11年(1583年)には伽藍が焼亡し(この地の領主香川氏は長宗我部より子を迎えて跡継ぎとしており、天正11年には長曾我部から香川氏へ東讃の領土も任せる旨の書状があるので長宗我部がこの年にこの寺を焼く事情もなく、この説は正しくないと思われる[独自研究?])、天正18年(1590年)より随時再建がなされた。

文化年間(1804年から1818年)には、白方屏風浦が空海の誕生地とし当寺が誕生所と名乗ることを不服とした善通寺との間で誕生所争いが勃発し、ついには江戸幕府の寺社奉行をも巻き込んで、文化13年(1816年)に嵯峨御所の「善通寺は誕生所で当寺は弘法大師出化初因縁の霊跡と称する」との裁決を受ける事態が生じた。

明治16年(1884年)琴平松尾寺多聞院より当寺と合寺の依頼があり、その後、多門院は廃し当寺と合寺した。

明治38年(1905年)本坊の裏の海岸にロシア兵捕虜収容所(善通寺俘虜収容所)が造られ約千名が翌年まで収容された。

本尊‥聖観世音菩薩(おん まか あろりきゃ そわか)

本堂

①金剛力士門

1965年(昭和40年)建立。

昭和三十年代に活躍した地元出身力士の琴ヶ浜(観音寺市出身、向かって右)と大豪(丸亀市)の像が立っている。

②本堂

1856年再建。堂内にて参拝できる。

③不動明王堂

④十三仏

⑤高みの松

その他

・本堂、楼門‥横から撮影。

大師堂(奥の院)

①楼門

四天門の楼門。

②御産井

弘法大師出産時に使われたと伝わる井戸。

③湯手掛の松

弘法大師を取り上げた産婆が手拭いを掛けたと言われている巨大な松の枯址。

④大師堂

本尊は稚児大師で、日本で唯一赤ちゃんのお姿をした大師とのこと。

⑤大塔

踏切手前から見る大塔。1953年(昭和28年)建立。

その他

・子安観音‥大師の母君・玉寄御前様が安産祈願したといわれる子安観音。報恩のよだれかけが祀られている。

・県道から大師堂への分岐‥踏切を渡ったところが大師堂。矢印案内アリ。

-寺院案内

© 2024 ひかり たび Powered by AFFINGER5