前神寺とは
住所‥愛媛県西条市洲之内甲1426 ☎0897-56-6995
63番・吉祥寺⇒(3.4km)⇒64番・前神寺〔真言宗石鈇派〕⇒(45.0km)⇒65番・三角寺
「ウィキペディアより」
役ノ行者(役小角)が石鈇山(石鎚山)の頂上弥山を目指すもあまりの厳しさで諦めて下山しようとしたとき、斧(鈇)を砥石で磨ぐ老人に出会い、行者が問うと曰く「之は磨いて針にするのだ」と、この言葉に行者は挫折してはならない「為せば成る」と自分に言い聞かせ再び頂上に向かい、ついには登り着き修行を続けると釈迦如来と阿弥陀如来が衆生の苦しみを救済するため合体し石鈇山蔵王権現となって現れたのを感得した。その後、行者が当地(現在は石鎚神社中宮成就社のある場所)まで下山してきたとき「わが願い成就せり」と云ったといわれる。そして、その尊像を彫って祀ったのが当寺の開基とされている。
後に石仙(しゃくせん)が当地に堂を建て常住舎と云われた。そして、弟子の寂仙[注釈 2]が山頂への登山道を整備した。桓武天皇(782年〜805年)が病気を患った時、常住舎で平癒の祈願をし成就したことによって当地に七堂伽藍が建てられ勅願寺とし「金色院前神寺」の称号を下賜され、石仙には菩薩号を賜ったと伝えられる。さらに空海(弘法大師)が19歳(793年頃)の時に石峯(石鈇山)に跨りてと『三教指帰』に自ら記しているように当山で修行をし、後年、当寺を巡錫している。また、文徳天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇、順徳天皇、後醍醐天皇など多くの歴代天皇の信仰が厚かったことでも知られ、当寺(常住)に1591年伊予の領主となった福島正則が参籠した。徳川家にも崇敬され1610年豊臣秀頼が神殿を修築、福島正則がその普請奉行となる。そして、西条藩主・小松藩主も厚く遇した。なお、当寺は山頂の弥山に存在する石鈇山蔵王権現の別当で、東の遥拝所でもあった。
江戸時代初期には、札所としての便宜をはかるため麓の橘郷に出張所として里寺納経所で通称里前神寺(現在の石鎚神社口之宮本社の場所)を設置したため、本寺を通称として奥前神寺と呼ぶようになった。1657年西条藩主一柳直興が里前神寺に仏殿を建立し、西条藩主になった松平家の信仰も集め松平頼純は寛文10年(1670年)東照宮を里前神寺にまつり、高三石を寄附し、三葉葵の寺紋を許した。真念の『四国遍路道指南(1687年刊)』には、里前神寺は前札所で本札所は麓より12里の石づち山前神寺(奥前神寺)と書かれていて、寂本の『四国遍礼霊場記(1689年刊)』に、里前神寺は本堂護摩堂その他堂宇相連なり本社は拝殿釣殿奥殿の重層で多数の摂社がありと壮大な伽藍になっていたことを記している。なお、奥前神寺から山頂弥山への登拝は、6月1日から3日の三日間しか許されていなかった。その後、1752年には徳川家重が1778年には徳川家治が、里前神寺に厄除け祈祷を命じたと記録がある。
奥前神寺は過酷な環境ゆえ本寺機能は里前神寺に移っていたため、横峰寺が里前神寺より近くなったので横峰寺が奥前神寺の管理権と別当の称号を確保しようとしたため争いになり、明和6年(1769年)御室御所(仁和寺門跡)の裁定を受け勝つことができ、奥前神寺の別当が確実なものとなったので、里前神寺は前神寺と、奥前神寺は常住社と呼ぶようになった。
明治初年、新政府の仏教伝来以前の神武のはじめに戻すという方針により神仏混淆を禁止し権現号が廃止されたため石鈇山蔵王権現の奉祀の必要なしとされ、役ノ行者以降当寺であった常住社から山頂弥山までと、江戸時初期以降に当寺の本寺になっていた前神寺の境内地を神社にすべしとの命令が下った。しかし、時の住職は裁判を起こしたり、民心を得ようと努力し抵抗するも、明治5年2月に本殿と庫裡が火災に遭い、近くあった塔頭医王院(現在の前神寺の場所)に本拠を移したが、ついに明治8年に廃寺通告が来る。しかし、この地も三方山に囲まれ前の場所以上に荘厳で素晴らしい場所で、明治12年に檀家などにより復興願いが出され、「前上寺(ぜんじょうじ)」の名を使うことで再興が認められ法灯を繋いで行った。そして、明治22年(1889年)前神寺の旧称に復することを許され、常住社は、今宮道の最終地点に奥前神寺として再興された。
昭和22年(1947年)御室派から独立、真言宗石鈇派の総本山となった。
本尊‥阿弥陀如来(おん あみりた ていせい からうん)
詠歌‥前は神後は仏極楽の よろずの罪をくだくいしづち
①惣門
②本堂
③大師堂
④水子地蔵菩薩
⑤金毘羅権現
⑥大師像
⑦十三仏
⑧御滝不動尊
⑨稲荷
⑩護摩堂
⑪薬師堂
⑫権現堂
権現堂の写真がありませんでした。悪しからず。
⑬納経所・庫裏
その他
・弁財天
・鐘楼
・お地蔵様
・ストリートビューによる境内の様子(360度)