大窪寺とは
「ウィキペディアより」
寺伝によれば、奈良時代の養老年間(717年 – 724年)に行基がこの地を訪れたとき悪夢を感得し草庵を建て修行をしたのが開基とされ、弘仁年間 (810 – 823) に唐から帰朝した空海(弘法大師)が現在の奥の院にある岩窟で虚空蔵求聞持法を修し、谷間の窪地に堂宇を建て等身大の薬師如来坐像を刻んで安置し、また恵果阿闍梨から授かった三国伝来の錫杖を納めて、窪地にちなみ「大窪寺」と名付けたとされている。
その後、真済僧正[2]が住職のころ寺領百町四方を結界とし大きく隆盛し、また、女人の参詣を許して勧請を授けたので女人高野として栄えた。そして、天正の兵火(史実は天正2年に安富氏とともに寒川氏の昼寝城攻めをするも失敗した阿波の三好長治が撤退時に火を放ったものであるが寺の案内板などでは長曾我部元親がすべてを焼いたことになっている)や明治33年の大火で苦難を受けたときもあるが結願霊場として法灯を守っている。
本尊‥薬師如来(おん ころころ せんだりまとうぎ そわか)
①仁王門
②本堂
③大師堂
④修行大師像
⑤お砂踏道場
⑥宝杖堂
結願した遍路の金剛杖が奉納され、焚き上げが行われる。
⑦阿弥陀堂
⑧納経所
⑨二天門
その他
・鐘楼
・十三重塔
・心経塔
・五大明王像
・結願修行大師‥錫杖をまわすとご利益があるとのこと