岩屋寺とは
住所‥愛媛県上浮穴郡久万高原町七鳥1468 ☎0892-57-0417
44番・大宝寺⇒(9.3km)⇒45番・岩屋寺〔真言宗豊山派〕⇒(25.9km)⇒46番・浄瑠璃寺
「ウィキペディアより」
本堂は標高585m付近にあり本堂の位置で比較すると八十八箇所中4番目の高さで、交通機関を最大限利用する者でも30分近く参道を歩いて登らないとたどり着けない車遍路には最大の難所である。参道途中にはおびただしい数の石仏が重なるように置かれていて、境内は山に向かって右が金剛界峰左が胎蔵峰と呼ばれる天を突く礫岩峰に挟まれ堂宇は巨岩の中腹に埋め込まれるようで、神仙境を思わせる山岳霊場である。なお、本堂が大師堂より小さいのは山全体が本尊とされているからである。
毎年、旧暦3月21日は当寺の縁日で、県道からの橋より中は車進入禁止で県道反対側の駐車場になり村人総出で世話をし、護摩祈祷・御影供法要・餅まきが催行される。その際に大師像御開帳や穴禅定お水供養がある。
寺伝によれば、弘仁6年(815年)霊地を探して山に入った空海(弘法大師)は、山中で神通力を備えた法華仙人という女性と出会う。仙人は空海に帰依して山を献上した。空海は不動明王の木像と石像を刻み、木像は堂宇を建立して本尊として安置、石像は奥の院の岩窟に祀って秘仏とし、岩山全体を本尊としたという。山号の「海岸山」は空海の作とされる「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を波にたとえむ」の歌による。山中の霧を海にたとえた歌である。
鎌倉時代中期に時宗の祖一遍がこの寺に参篭したことは一遍聖絵に描かれている。そして、いつからか第44番大寶寺の奥の院とされていたが、明治7年に初代住職が着任した。だが、明治31年(1898年)に仁王門と虚空蔵堂(祠)を残し堂宇と史料宝物のほとんどを焼失した。その後、大正9年に大師堂、昭和2年に本堂、同9年に山門、同27年に鐘楼、同38年に宿坊、同53年に迫割不動堂と白山権現堂と順次再建されていった。
本尊‥不動明王(のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん)
詠歌‥大聖のいのる力のげに岩屋 石のなかにも極楽ぞある
〖車へんろの方も20分は歩きます〗
①仁王門
車へんろの方は大師堂の奥にあるので見落としがちですが、ご一見のほど。この先の路を登ると逼割禅定、三十三童子行場に続く。
②③本堂・仙人堂
本堂は大師堂より一回り小さく、山全体を本尊としていることから、遙拝所のような存在とのよう。昭和2年再建。
本堂横の岩壁の近くに岩窟があり、こちらにハシゴが掛けられており、登ることができる。こちらが仙人堂(法華仙人堂跡)ですが、雨の日は要注意。(実際滑りました)
④大師堂〔重要文化財〕
宝形造、銅板葺き。正面の向拝の柱は左右とも双子柱、母屋の四隅は3本組の柱となっていいる。大正9年に再建したもので和洋折衷の作りは、国の重要文化財に指定されている。
⑤穴禅定
かなえる不動、地蔵尊、弘法大師の石像が最奥に祀られているとのこと。(写真のとおり暗くてよく分かりませんでしたが、ろうそく、線香でお参りしてきました)
⑥水子地蔵尊・納経所
・水子地蔵尊
・左の休憩所の奥が水子地蔵尊の覆い屋根、奥が納経所。
⑦遍照閣
新しく建設された客殿。
⑧やすらぎ地蔵・石仏群
これより下の参道にも多くの石仏が祀られている。
⑨大師像
⑩山門
山号の「海岸山」が額に飾られており、これは、大師の詠んだ歌を元にしたもので、山門の脇に石碑として記されている。谷間の霧を海に、岩山を島に、生える松を波に見立てた歌になっている。
その他
・岩壁
・参道の途中の石仏群
・山門手前の石柱(仁王様)