「ウィキペディアより」
寺伝によれば、奈良時代の天平11年(739年)に行基が勝賀山の北麓に庵を結び、宝幢を刻んで宝幢山勝賀寺として創建したといわれている。この場所は奥の堂と呼ばれており、奈良時代〜平安時代の瓦片が出土することから寺院跡とみなされ、勝賀廃寺と呼称されている。平安時代前期の弘仁8年(817年)空海(弘法大師)が現在地に寺院を移し、地蔵菩薩像を刻んで安置したと言われる。
嵯峨天皇の勅願寺となり、朱雀天皇のとき勅旨讃岐四談議所(他は、萩原寺・無量寿院・極楽寺)の一つとなったが、その後は衰微していたようである。 鎌倉時代になり、この地の豪族・香西左近将監資村が鎌倉幕府の命により寺院を再興し香西寺と名付けた。その後は香西氏の庇護を受けることとなった。
南北朝時代には室町幕府の守護大名の細川頼之が本津(現在の香西東町)に移転し、香西氏11代当主の香西元資が地福寺と改称した。
戦国時代の天正年間(1573年 - 1592年)には戦火により伽藍が焼亡した。桃山時代に讃岐国の大名として配された生駒親正が復興し高福寺と名を改めた。
江戸時代前期の万治元年(1658年)失火により伽藍を焼失し、再び現在の地に移転した。寛文9年(1669年)高松藩初代藩主松平頼重が伽藍を整備し別格本山香西寺と改称した。しかし、その後も失火に見舞われ再建がなされている。
本尊‥延命地蔵菩薩(おん かかかびさんまえい そわか)
①お迎え毘沙門天
②地蔵尊
③仁王門
④本堂
⑤大師堂
⑥毘沙門堂
⑦観音菩薩
⑧目治し地蔵
⑨厄除大師
⑩足治し地蔵
⑪水掛地蔵尊
その他
・悲願金剛
・弘法大師
・弘法大師 等