大瀧寺とは
「ウィキペディアより」
徳島県美馬市と香川県高松市の境にある大滝山(標高946m)の山頂近くの標高910m辺りにあり、別格二十霊場(四国八十八箇所を含めても)のうちで最も高所に位置する。明治初期の神仏分離以前は西照神社本殿から西へ約50mの同じ壇(標高935m付近)に当寺本堂があった。また、今は不明になったが、当寺の奥之院が山上にあり滝があったとの伝承がある。往時は、阿波の麓から讃岐の麓まで檀家があったと云われ、夏子ダム方向から来る参詣者が多いが、脇町中央方面からの道で来ると、かつて繁栄していたのがわかる。
伝承によれば、奈良時代の神亀3年(726年)に行基が讃岐側から大滝山に登り山上に一宇を建立し阿弥陀三尊を安置したことに始まるとされる。空海は、青年期に「阿国大瀧嶽ニ躋リ攀ヂ(のぼりよぢ)」て求聞持法を修したと自著「三教指帰」に記しているが、この大瀧嶽は当山とも、阿南市の太龍寺(舎心嶽)ともいう。平安時代前期の弘仁6年(815年)に空海が再びこの地を訪れて寺院を再興し、西照大権現の像を安置したといわれる。
天安2年(858年)には聖宝(理源大師)が登り、厄除厄流の大護摩を修法したと伝えられている。
江戸時代には徳島藩家老稲田氏の祈願所となり、高松藩の崇敬も集め、西照大権現堂、龍王堂、護摩堂、観音堂、不動堂、弘法大師御影堂、鐘楼堂があり、ずっと下方の民家からすぐ上がったところに仁王門があり、参道には18基の鳥居があったという。また、東方山中に奥の院熊野十二社大権現があった[1]。しかし、幾度かの火災により多くは失われた。
隣接する西照神社とは神仏混淆の山岳信仰宗教施設「西照権現」として存在していたが、明治初期の神仏分離令により大瀧寺と西照神社とに分離された。
その後、大正時代のリョウガ住職の時代は栄え、大窪寺にも当住職の弟子が派遣されたと云われ、四国八十八箇所88番を打って当寺に訪れた遍路もいたことから四国総奥之院と云われた。今でも、四国別格札所巡りの遍路だけでなく健脚の遍路は当山を歩きで訪れる。
西照権現の由来:空海が弘仁六年再度訪れ祈念をしていると、白髪の翁が忽然と現れ「我是れ汝が遠祖 天忍日命神(あまのおしひのみこと)の使いなり」空海問う「その神跡いずれなりや」翁曰く「即ち此処なり」と古塚を教えて、その形、古き蝦蟇(がま:ガマガエル)と変じて古塚に入りて身を隠す扨てこそ故あらんと此の処に草庵を構えてその霊を祀る。その後その草庵を大瀧寺と改め、その神を西照大権現と号す。(本堂に掲示の解説より)
本尊‥西照大権現(南無西照大権現)